長嶋不動産鑑定事務所の歩み(その2)
2013年9月26日
富士製鐵(新日鐵住金の前身)の進出に先だって、道路や水道などインフラ整備関連など不動産鑑定の仕事も増えていき、鑑定士補の友人ら2人が応援に駆けつけてくれ、忙しい日が続いた。
ところが1969年8月になるとパッタリ仕事が切れた。受注型ビジネスの恐ろしさが身に沁みた。そこである事業所の用地課長に何か困っていることはありませんかと尋ねると、河川改修工事を手がけているが、住民の強硬な反対にあって工事に着手出来ず困っているという話だった。
「それは私が解決しましょう。営業補償調査をやらせて下さい」と申し出た。開業一年足らず初めて経験する仕事だったが、国税での調査経験から仕事には自信があった。まず、高齢で廃業の可能性もあり、好意的な地権者から接触を開始し、無事終了。次に立地条件に支障のない事業所を調査した地権者から紹介してもらい、これも無事終了。
この一帯は戦災を逃れ、昔ながらの下町の面影を残し、人情豊かで皆が支え合って生活している土地柄だった。営業補償調査とはいえ、用地交渉の第一歩であると肝に銘じ、昼食は寿司屋、夕方には毎日のように八百屋で漬け物や大根、タマネギなどを買って帰り、散髪も毎週行くのでいつも小ざっぱりというように地権者の店に足繁く通った。こういった具合に地域の人とふれあい、次を紹介してもらいながら調査を進めた。
反対派の旗頭と言われた八百屋の主人を最後に訪ねたときは「待ってたで」と実によく協力してくれた。用地交渉がうまくいけば事業は90%完成と言われるが、早速着工し立派な橋がかかり近隣の環境も一変した。
これが当時殆ど名称を知られていなかった「補償コンサルタント」業務の先駆けである。
河川改修の事業に寄与したことが起業者間に伝わり区画整理や河川改修、都市計画街路事業などで営業補償業務の活躍の場を与えていただいた。ソロバンから電卓へ、乾式コピー機と装備も整えたのもこの頃である。
1973年長嶋不動産鑑定事務所の補償部門から独立して、長嶋補償コンサルタント株式会社を設立。長嶋敏行が代表取締役に就任した。
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