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豊後大友氏について(4)-なぜ大友氏が豊後の守護となったのか②

2015年1月1日

後白河法皇と源頼朝の共通の敵であった平家が滅亡すると、この両者の関係が急速に悪化、後白河法皇(ごしらかわほうおう)は源義経を味方に付け、鎌倉幕府にゆさぶりをかけようとしますが、これが上手く行かず、義経は都落ちを余儀なくされます。後白河法皇は、義経が体制を整え、再度頼朝と対決できるよう、豊後武士団の先導により、義経が海路、豊後に落ち延びることを計画します。しかし、義経らを乗せた船は、折からの暴風により摂津大物浜(せっつ だいもつはま、現在の兵庫県尼崎市)で難破し、義経は落ち延びる場所を平泉(ひらいずみ、現在の岩手県の平泉町)に変更するのです。

強力な豊後武士団が義経派(=後白河法皇派)であることを頼朝は危惧し、義経・法皇勢力を豊後から一掃しなければ、日本はおろか九州さえ統治できないと考えます。そして、豊後を鎌倉幕府の直轄地(関東御分国、かんとうごぶんごく)とするのです。ちなみにこの当時、鎌倉幕府の関東周辺以外の直轄地は豊後のみでした。

このように頼朝にとって、豊後は、まさに「目の上のたんこぶ」でした。したがって、豊後には強力、かつ、頼朝が信頼できる側近を派遣し、統治させるしかありませんでした。そこで選ばれたのが、頼朝の側近中の側近、大友氏初代、大友能直だったのです。

なお、緒方惟栄(これよし)は、大宰府を陥落させた後、平家を庇護する宇佐神宮を焼き払い神宝を略奪するという暴挙にでますが、平家討伐の功により恩赦されます。しかしながら、義経との対立が決定的となると、頼朝は、表向きは義経加担の罪では無く、宇佐神宮乱入の罪を蒸し返し、豊後武士団の大将である緒方惟栄を流罪に処したのです(この時、その他の有力武将も流罪となっている)。このようにして、頼朝は豊後武士団の力を徐々に弱めて行きました。

余談ですが、この時、もし義経が計画通り豊後に落ち延びていたら、豊後(大分)の歴史はどうなっていたのでしょうか?義経にまつわる名所が至る所にできたかもしれませんし、鎌倉幕府VS義経+豊後武士団の大戦(おおいくさ)が豊後で起こっていたかもしれません。

また、「判官(はんがん)びいき」とは、「立場の弱い人に同情し、ひいきしてしまうこと」をいいますが、これは義経の別の言い方、「九郎判官」からきたものです。現在の大分も当時と同じで、判官びいきの所が多々見受けられます。権威的なものを嫌い、新し物好きで、外部の人に対しては寛容です。この点、他の九州の県とは事情が異っているような気がします。その証拠に、政治の世界では、大分選出の議員は代々野党が多く、いつも反主流派にいる気がします。例外として、大分選出の村山富市氏の総理就任(大分初の総理であった)がありますが、これも当時、政権返り咲きを狙う自民党が数の論理から、万年野党の社会党を巻き込み、社会党委員長をしていた村山さんを担ぎ出したからでした。大分では都市部のみならず、郡部においても自民党の基盤が弱いのです。

このようなことを考えると、「判官びいき」の感情は、我が大分県人のDNAに刷り込まれれているんではないかと思ったりしますが・・・。

 

カテゴリー社長,歴史,大友氏

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