豊後大友氏について(5)-宗麟の時代①:二階崩れの変 第一
2015年1月2日
室町幕府成立時の南北朝の争いや隣国の大内氏との抗争等、大友氏の存続を脅かす出来事は多々ありましたが、大友氏の豊後統治は室町時代も続きます。そして、二一代大友宗麟(そうりん、1530年~1587年)の時代、大友氏は最盛期を迎えます。宗麟が出現する以前も大友氏は本拠地豊後のみならず、九州各地に影響力をもっていました。特に豊前・筑後・肥後・肥前・筑前等の北部九州においては、それらの国の守護を兼務したり、親族を通して間接的に支配を行う等、多大な影響を与えていました。豊後大友氏は、鎌倉から室町時代にかけて、まぎれもなく九州一の大名であったといえます。
大友宗麟は同時代を生きた戦国武将でいえば、上杉謙信、吉川元治(きっかわもとはる、毛利元就の二男)と同い年、織田信長の4歳年上ということになります。大友宗麟=大友義鎮(よししげ)はその全盛期、豊後・豊前・筑前・筑後・肥前・肥後の九州六カ国を統治下に置きます。
その宗麟(義鎮)も名門大友家を何の問題なく継いだ訳ではありません。父親義鑑(よしあき、二十代)の横死と引き換えに大友家の当主となっています。大友二十代義鑑が殺害された事件を「二階崩れの変」といいます。この事件は現在の大分市上野丘西にあった大友館(おおともやかた)で起こりました。この館は、宗麟の時代に主として利用され、現在の大分市顕徳町(けんとくまち)3丁目にあった大友館と区別するため、ここでは、もうひとつの呼び方、上原館(うえのはるやかた)と呼ぶことにします。上の写真は現在の上原館跡です。
キーワード:大友氏