豊後大友氏について(10)-宗麟の時代⑥:宗麟の弟、大内家を継ぐ
2015年1月15日
義鎮(よししげ、宗麟)が大友家当主となった1年後の1551年、大友氏と主に筑前、豊前を舞台に長い間争ってきた中国の雄、大内氏に大きな事件が起こります。当主大内義隆(よしたか)が家臣の陶隆房(すえたかふさ)の謀反により自害の追い込まれたのです。
大内義隆は1528年、父義興(よしおき)から大内家を継いだ後、九州の大友氏、少弐(しょうに)氏との争いを繰り返しました。大友に対しては、1534年、豊後に進行し、勢場ケ原(せいばがはる、現在の大分県杵築市山香)で大友軍と戦いますが、多数の死傷者が出たため、撤退を余儀なくされます。一方、少弐に対しては、少弐の有力な家臣であった龍造寺家兼(りゅうぞうじ いえかね)を凋落し、大内と少弐の争いを傍観させ、1536年には少弐氏を滅亡させました(その後、少弐氏は復活しますが、家兼の跡を継いだ龍造寺隆信(りゅうぞうじ たかのぶ)によって1559年に滅ぼされ、鎌倉時代から続いた名家少弐氏は完全に滅びました)。
このように大内義隆は当主となった初期の頃には、名家の跡取りらしく積極的に対外戦略を行います。しかし、1543年、出雲の尼子(あまご)氏との戦い(月山富田城の戦い)において、味方に多数の寝返りが出て大敗してからは、政治的野心を失い、文化に傾倒し、まるで公家のような生活に入ってしまいます。結果、義隆は文治派を重用し、陶隆房に代表される武断派を遠ざけました。
大内家中で文治派と武断派の対立が深刻となる中の1551年、陶隆房が遂にクーデターを起こし、大内義隆を攻め自害に追い込み、その嫡男も殺害するのです。
そして、大内家の実権を握った陶隆房は、大内家の血を継ぐ義鎮(宗麟)の弟、晴英(はるひで、母は大内義隆の姉)を迎え入れ、大内家の当主としたのです。以後、晴英は大内義長(よしなが)と名乗ります。
義鎮は、陶隆房の傀儡(かいらい)となるだけだと考え、弟晴英の大内家入りには反対したようです。しかし、晴英は「大内家の跡取りとなることは武門の誉れ。たとえこの後、どんなことが起ころうとも後悔はしない」と自ら大内家入りを義鎮に訴えたといわれています。その義鎮の心配が数年後現実のものとなります。
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